自分の咎めに気がつくには

人間とは何か?

「それは、神が神ではない者になってはじめてできる体験、経験を吸収するために作られたもの」です。

完全、完璧の創造主にはできない体験、経験をするための人型ヒューマノイドと言っても良いかと思います。

絶対の存在に出来ない経験とは、刹那さとは何か、愛されないとは何か、出来ないとは何なのか、家族の絆とは何かとか等、人間的なものは大いなる1つには経験、体験できないのです。

だから、人型ヒューマノイドを作って、真我でない自我を作り、最初の初期設定に「常に不足を感じて成長しなければいけない」という価値観をインストールした。そしてその経験した記憶に基づいて、価値観を作っていくことにしたのです。

人間とは、本当の自分が作り出した分離の世界を体験、経験できる人型ヒューマノイドなのです。

この人型ヒューマノイドには、ある特徴があって、外側を内側として認識する眼を持っているのです。

ですからこれが分かると、世の中は180度反転してしまいます。

眼に写る外側のものは、すべて心の中のもの

人型ヒューマノイドは自分の心の中を目の前に投影して認識するという機能を持っていたのです。

これに気がつくこと。目の前の出来事は、外側で起こっているのではなく、常に内側で起こっていることなのです。

釈迦の弟子は、あるとき釈迦に聞きました。

お釈迦様は外側に起ることは100パーセント自分の内側の問題とおっしゃられますが、現に私は、私を誹謗中傷する人に手を焼いています。私を攻撃してくる人が実際にいるのに、私には100パーセント内側とは思えません。せめて1パーセント位は、外側に責任があってもいいのではないでしょうか?

それにたいしての釈迦の答えはこうでした。

1パーセントも無い

さすがにお釈迦様だと思いました。2500年前にこの回答ですからね。

世の中の出来事は、すべて自分の内側の投影であることに気がつけば、よいのです。自分の意見を否定する人が現われたら、自分の中に咎めが無いかを探ります。

自分の内側に在る咎め、それは「人の意見を否定してはいけない」そんな咎めがないかどうかを探るのです。

実は、人の意見を否定することは、相手は自分の意見を言っているだけかもなのです。自分の意思を相手に迎合せずにしっかりと届けているだけかもしれません。

そこに、価値観「人の意見を否定してはいけない」があると、この制限が相手を悪にしたてあげます。相手に問題は無い。問題は自分の内側のこの価値観ですので、この価値観を等価値にすればよいのです。

つまり、相手の意見を尊重しても、否定しても、どちらでも良いのだと思えるように等価します。そこがニュートラルポイントなのです。

すると、咎めのエネルギーが消えて、相手の否定が良いアドバイスに変わったり、否定と捉えられなくなってくる不思議が起ります。

そしていつの間にか、その相手は本当に自分を責めたり、否定したりしなくなってしまうでしょう。

目に見える世界に、否定されることやイラつくことがあるなら、それは自分の内側の咎めを表しているのです。手放すことがあることに気がつかせてくれているのです。